講演「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」---藤田正@高野山
高野山で(Beats21)
 2003年8月の後半に、高野山で「第34回部落解放・人権大学講座」という、人権に関連する様々なテーマを扱う規模の大きな催し物が開催された。
 ここに記載するのは、8月21日に行なわれた藤田正(Beats21)の講座を整理したもの。当日は大きな体育館が満杯になるほどの盛況で、「竹田の子守唄」や放送禁止歌に関する関心の高さをうかがわせた(課題別講2 歴史・文化3「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」)。
 
はじめに
竹田の子守唄」もそうですが、歌というのは非常に多面体です。ただ耳にして、いい歌だな〜と思う場合もあります。ビートルズのジョン・レノンの歌は、英語がわからなくても「すごいな」と思います。しかしその後、彼の伝記などを見ると、「ジョン・レノンの歌の多くは、彼の苦難の道から発酵したものなのだ」ということがわかってきます。「竹田の子守唄」もそういう歌です。
 本日は、「竹田の子守唄」が持つそういった部分、名曲のうわべではなく、土台の部分、あるい背骨の部分のお話したいと思います。
 
赤い鳥「竹田の子守唄」が消えた経緯
まずフォーク・グループの赤い鳥に一九七〇年代に歌われた曲を聞いてください。

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし  (一番)
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし     (二番)
この子よう泣く 守をばいじる
守も一日 やせるやら     (三番)
はよもゆきたや この在所こえて
むこうに見えるは 親のうち  (四番)
高野山で(Beats21)
「竹田の子守唄」は、今で言えば、小学校一年から六年ぐらいの主に女の子が、奉公に出され、奉公先の赤ちゃんをおぶって、お寺や神社の境内をあやして歩いた時代に生まれた歌です。それは明治、大正、そして昭和の初めあたりの頃だと言われています。
 一番の歌詞の意味は「守り子に来た私(女の子たち)も嫌になる旧盆から先は、雪もちらつくし、背中の赤ちゃんも泣くし」です。歌の舞台とされる京都の人に、この歌詞の意味を訊ねたことがあります。すると、「京都の冬は、他国の人には想像できないくら寒いから、こんな歌詞が出来たんでしょう」と説明を受けたこともありました。
 ただ、この歌詞をじっと見ているとですね、単なる寒さだけではなく、もっと深い心の傷を描いているようにも感じるんです。
 問題になる歌詞が四番です。ここにある「在所」とは一般的には「いなか」「郷里」などの意味ですが、京都では、時として被差別部落を指す言葉にもなります。この「在所」の意味が、のちのちヒット曲「竹田の子守唄」をメディアから追い出してしまう要因の一つとなりました。このことはあとで触れることにします。
 その先に、赤い鳥の「竹田の子守唄」がどのようにヒット曲になったかをお話ししなくてはなりません。              
 伝統的な歌が有名になるには必ずきっかけがあります。「竹田の子守唄」は、京都の竹田にある被差別部落で生まれ育てられたものだと言われています。鹿子絞りが有名だったあの地区で、女性たちがお母さんやおばあさんから受け継いだ題名もない歌をうたっていた……これが「竹田の子守唄」の原型です。           
 一九五〇年代から六〇年代かけて、政治運動や労働運動と一緒になった「うたごえ運動」が盛んになりました。その流れの中、竹田の被差別部落にも、青年たちの小さな合唱団ができました。
 そこへ、クラッシックの作曲家、尾上和彦(当時は多泉和人)さんが合唱の指揮にやってきます。そして尾上さんは竹田で、グループのある青年のお母さんとも出会いました。彼女は、地元の子守唄や昔の歌をたくさん知っていたからです。お母さんの歌を聴いた尾上さんは、びっくりしてしまいます。「これは大変な歌だ、素晴らしい」と。そして、家に帰って譜面に起こしたのが、私たちが知っているいわゆる「竹田の子守唄」の出発点だったのです。
 その時の、最初は歌詞もついていなかった楽譜が、歌詞が加えられしだいにうたごえ運動のサークルの中へ広がっていきました。六〇年代も半ばのことです。
 うたごえ運動を追いかけるようにしてフォーク・ブームがやってきます。
 そのフォークの人たちも「竹田の子守唄」を耳にします。当時、後藤悦治郎さんもまた、日本にこんなに美しい歌があったのかと驚いたアマチュアのフォーク・シンガーの一人でした。後藤さんは、のちに赤い鳥のリーダーとなる人物です。当時のフォークの人たちは、欧米の歌を英語でうたうことから出発しました。それが六十年代の中頃からでしょうか、「日本の歌を再発見し、作りだそう」という気運が生まれてきます。「竹田の子守唄」は彼らによって「発見」され、京都のフォーク・サークルでも有名な歌となっていったのです。
 たとえば、私がここに紹介する一つに……六〇年代の真ん中に出された自主製作盤のLPがあります。大塚孝彦さんがリーダーとなったグループで、高田恭子さんというのちにレコード大賞の新人賞を取った女性もうたっています。私が知る限り、これが「竹田の子守唄」の最初のレコーディングのはずです(LP『ザ・ファースト・アンド・ラスト』)。
 この歌の解説に、大塚さんは次のように書いておられます。
「竹田の子守唄のA面の最後は、もう一度日本民謡でひきしめます。高田恭子と大塚孝彦の最大のヒットとなった曲、実は同志社大学の合唱団『麦』を小生が聞きに行って、この曲に魅惑され楽符をもらったのが、そもそもの始まりで、その起源は余り定かではなく、京都の竹田のあたりだろうと言われています。日本人の間にはいまだに根強く部落民に対する差別意識が残っていますが、部落民であるために幼くして子守女にやられた哀しい少女の身の上をうたった歌です。五木の子守唄とまったく似た内容です」(「楽符」は原文どおり)
高野山で(Beats21)
 大塚さんはこの歌を部落の歌だと知ってうたっていたんですね。
 後藤さんは、大塚さんたちがうたう「竹田の子守唄」にショックを受けたそうです。そして後藤さんは、この歌によって英語ばかりだった自分のバンドを解散し、新たに「赤い鳥」を結成します。そして「竹田の子守唄」で、ヤマハのコンクールでグランプリを獲得し、プロ・デビューするわけです。
 で、いい歌であればあるほど、人やメディアなどを通じてどんどん広がっていきますね。地球の反対側で生まれた哀しい歌が、海を渡れば楽しい歌だと思われている、なんてこともあります。この「竹田の子守唄」も、出身地がわからないけど、素晴らしい歌だよね、と広がっていきました。大手から発売したシングル盤「竹田の子守唄」は、七〇年代当時、百万枚ほども売ったと言われています。
 当然、ファンからは「この竹田ってどこですか?」と聞かれます。しかし赤い鳥の後藤さんは、そのたびに口を濁していたそうです。京都、関西のフォーク仲間では大変に有名な歌であっても、彼は持ち歌の故郷を自分たちできちんと調べたことがなかったからです。
 そこで彼は、故郷を捜し始めます。結果として、その故郷が京都だということがわかりました。それも、後藤さんと一緒に故郷探しをしてくれた友人が、京都のある女性から、歌の中の「在所」とは京都では被差別部落のことだと指摘されたのです。
 冒頭でも言いましたように、この「在所」という言葉は、一般的な「田舎」という意味もあり、京都においても必ずしも被差別部落だけを指すものではありません。
 しかし、その意味すら検証せず、歌が有名になるにつれて「部落をテーマにした歌のようだから、(放送などで紹介するのは)やめておこう」という形でウワサは広まっていったようです。仮に「在所」が被差別部落であったとしても、この素晴らしい歌を積極的に紹介し、部落の人たちの苦しみを訴えかけることこそが、メディアの人たちの役割なのではないかと思うのですが、事態は逆の方向へ進んでいったのです。
 ちなみに、竹田の生まれで作家の土方鉄さんは、この歌が有名になった頃から「うちのムラの歌だ」と書いておられます。そしてその文章では、歌の中の「在所」を被差別部落だとはされてはいないのです。
 このようにきちんと書かれている文章があるにもかかわらず、広範囲に流布されていったのは、無責任な「あれは部落の歌だから…」というような、何か腫れ物にでも触るようなウワサなり口調だったようです。
『放送禁止歌』を書かれたテレビ・プロデューサーの森達也さんが大手のテレビ局で資料を調べていると、「竹田の子守唄」に関する「在所=未解放部落」と書かれてた文書を見つけたそうです。その文書には「同和がらみでOA不可」(OA不可=オン・エア不可、つまり放送できない)とも書いてあったそうです。何度も言いますが、「在所」は、京都地域においてもすなわち被差別部落ではないんです。それなのに、いつしかこうのように断定されてしまう。
 人権を尊重するのであれば、私たちメディアの人間は、差別に苦しんできた人たちの美しい結晶を進んでオンエアすべきはずなのに、なかなか腰が重い。加えて「在所」という一つの言葉すら、調べもしないで間違った判断を下してしまう。これは、二重の差別と言えるんじゃないですか? とても残念なことです。
 
子守唄とは
 これから、「竹田の子守唄」の元歌を導入聞いてもらいます。これは、竹田の皆さんにいただいたテープイすが、私たちが知っている赤い鳥の歌とはずいぶん違い、さらにリアリティのあるものです。これを導入部分にして、日本の子守唄は何なのかお話したいと思います。
 いま竹田で発見されている元歌は二つあります。元歌としての「竹田の子守唄」と、「竹田こいこい節」です。年代も少し違い、一番古いだろうと言われているのは元歌のほうです。

この子よう泣く 守りせというたか
泣かぬ子でさえ 守りゃいやや どしたいこうりゃ きこえたか   
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら どしたいこうりゃ きこえたか
来いよ来いよと こまもの売りに
来たら見もする買いもする どしたいこうりゃ きこえたか
寺の坊さん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる どしたいこうりゃ きこえたか
久世の大根めし 吉祥の菜めし 
まだも 竹田のもんばめし どしたいこうりゃ きこえたか
盆が来たかて 正月が来たとて
なんぎな親もちゃ うれしない どしたいうこりゃ きこえたか
「ねんねーんころりよ〜」で知られる「江戸の子守唄」は、江戸時代の後期に日本全国に広まった歌のようですが、今聴いてもらいました、くどき歌、なげき歌といった内容の子守唄(正しくは、守り子唄)は、江戸末期から明治時代にかけてたくさん作られ、昭和の大戦が終わるあたりで役目を終えた歌のようです。「竹田の子守唄」も、その中の一つ、というわけです。
 北原白秋が集めた全国の子守唄の全集を見ても、「江戸の子守唄」のように赤ん坊にうたいかける優しい歌もたくさんありますが、この赤ん坊を殺したいぐらいつらい、というメッセージ・ソングがたくさんあります。これは守り子に出された当時の女の子たちの、特に貧しく差別を受けてきた子どもたちの、心象風景だろうと思います。
 次に、「竹田こいこい節」を聴いていただきます。これは、元唄より少し新しい世代の歌だそうです。ちょっと音が悪いのですが……。

新建(しんだち)新建と いばるな新建
広い新建に寺がない こいこい
ねんねんころりよ 寝た子はかわい
起きてなく子は つらにくい こいこい
この子よう泣く もりをばいじる
守りも一日やせるやら こいこい
盆が来たとて 何うれしかろ
親もなければ 家もない こいこい
赤い鼻緒の じょじょはいて
竹田の岩公(いわこ)に
こうてもろた こいこい
高野山(Beats21)
 聴いてもらったこのテープの、音がなぜ悪いのかにも因縁があります。
 この歌は本当に貴重で、このような女性が生きてらっしゃるだけでも非常にありがたいなことなのです。でも、この女性たちは自分たちが知っている子守唄が録音されることを喜ばないんだそうです。なぜかというと、彼女たちは、かつて自分たちの人間性や文化を徹底して否定され、職業差別や結婚差別などたくさんのつらい目にあったがゆえに、自分たちの歌が価値あるものだと、思うことができない、とても恥かしい。こういう感情をもってらっしゃる。
 ですから歌を知っているおばあちゃんに、「はいマイク!」とは、いかないのだそうです。身内の方々など一番信頼している人が話を聞きながら、目立たない所にマイクを置いてようやく残すことができたテープなのです。
 音が悪いこと、これも部落差別と密接に関わっていることを含んでおいてほしいのです。
 と同時に、子守唄は特に明治、大正の時代に貧しい子どもたちの間で歌われたと言いましたが、もちろん、部落の子に限らず当時の「小さな女性労働者」は、こういった苦しみの歌、怒りの守り子唄をうたっていました。でも、部落に多くの子守唄が残ったのはなぜでしょう。
 ある研究者によると、地元の子守唄を実際にうたったことがある人の年齢を、部落と部落でない地域とで比較すると、二十年の差があったそうです。
 明治に近代化が始まり、工場などの賃金労働者として若い女性たちもかり出されます。当然、部落の女性たちも子守よりは条件のいい工場へ行こうとしますが、そこで就職差別にあいます。仮になんとか勤めたとしても、一緒にご飯を食べさせないなど様々な残酷な差別がありました。そして、泣く泣く家に帰ってくる。そうすると部落の子どもたちに残された労働手段は、内職や守り子しかなかったのです。それで、うたい継がれた子守唄は長く、部落の中に残ったのだそうです。
 歌がうたい継がれ、今でも地元で生きているということ自体が差別の表われなんですね。
 私のように音楽が好きな人間からすると、「竹田の子守唄」は非常にユニークな歌なんです。ずっと昔の元の歌が二つも残っていて、赤い鳥ら若い人が見つけ大ヒットにし、一度放送禁止歌的なものになり、また甦ってと……このように、おおよそ百年にわたって歴史が追え、かつドラマチックな「人生」を歩み続ける歌はめったにありません。
民衆文化の創造
 また、この歌を検証していくと部落差別の問題が歌詞の中に綿々と語られています。
 先ほど、おばあちゃんたちがうたい継いだ子守唄は素晴らしいと同時に、部落差別の象徴だと言いましたが、そこには、その前の世代のおばあちゃんたちの苦しみがあるわけで、それを越えていかなければならないのです。
 たとえば「久世の大根めし 吉祥の菜めし まだも竹田のもんばめし」と、かつての京都の被差別部落にあったつつましい食事風景を、のちの赤い鳥もうたうようになりますが、ずっと差別され続けた人にとって、これは苦々しい歌です。
 赤い鳥が全盛の頃、歌の伝承者であった岡本ふくさんが楽屋を訪れ、頼むから歌わないでくれと彼女から懇願されたそうです。
 しかし、リーダーの後藤さんは、ふくさんの息子さんに相談しながら、こう考えたそうです……こんな社会的な、苦しみをうたい込んだ歌こそフォーク・ソングじゃないか。我々がうたい続けるのはこの歌なんだ。おあばちゃん悪いけどうたわせてもらうよ。
 後藤さんの選択が絶対に正しいのかどうかはわかりません。
 しかし、新しい世代が新しい考え方のもとに、なすべきことはあります。かつては「部落に文化なんかない」なんて言われました。
 しかし私から言わせれば、とんでもない話です。正反対なのです。
 被差別部落の人々や、苦難の上に生きてきた人々の中にこそ、正当な民衆文化が花咲くのだと断言してもいいと思います。というのは、私はポピュラー音楽が専門ですが、ジャズでもブルースでも二十世紀のポピュラー音楽における画期的な表現は、貧しく差別を受け、流浪の旅をし、大変な苦労をして、常に人間とは何かを問うた人たちの中から生れ出たからです。
 ジャズの巨人の一人、ルイ・アームストロングなど、まさにこの通りです。一番に惨めな生活、一番に苦しめられた社会の中に育った、一人の才能のある人間が画期的なジャズのクリエーターになったのです。これはロックでもブルースでも同じです。
 しかも、そのほとんどが十代だ、というのも興味を惹かれます。
「黒人なんて人間ではない」などと、今でも言われています。私はジャズやブルースを生んだアメリカの南部を歩いてきましたが、その差別たるやすさまじいものがあります。でも黒人たちは「俺たちこそが本当のアメリカ文化を担っているのだ」と、差別に対して叛旗を翻したのです。
 その百年の歴史が、アメリカの音楽文化、つまりジャズやブルースの歴史となっているのです。
 ゆえに「竹田の子守唄」も、誇り高き文化の結晶である。 
 これからは、そのように声を上げて主張し、みんなにうたってもらうべき歌が「竹田の子守唄」だと私は思っているのです。
(おわり)
*Special Thanks :部落解放・人権研究所
*なおこの講演記録は『部落解放・人権入門 2004』(雑誌『部落解放』増刊号=528号、解放出版社、1050円)にも収録されている。

Amazon.co.jp−『竹田の子守唄』(藤田正著)

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