映画『春香伝』−美しき物語歌の結晶
『春香伝』のチラシ
(photo:シネカノン)
『春香伝』のチラシ (photo:シネカノン)
文・藤田正
 韓国映画『春香伝』(しゅんこうでん)は、2000年の暮れから2001年1月半ばにかけて、東京・有楽町の「シネ・ラ・セット」で公開されていた。
 『春香伝』は、韓国・朝鮮人であれば知らぬ者のいない有名な物語の映画化である。
 監督は、『風の丘を越えて−西便制(ソッピョンジェ)』(93年)で日本でも知られることになったイム・グォンテク(林権澤)。『風の丘を越えて』は、流浪するパンソリ芸人の家族を描き、韓国映画興行の歴史を塗り替えた大ヒットだったが、『春香伝』は、この『風の丘を越えて』の姉妹映画ともいえる作品で、パンソリの中で最も有名な演目である春香(チュニャン)と夢龍(モンニョン)の長い愛の物語を、その始まりから最後まで、パンソリの語りを道案内にして描き出している。
 映画の道案内は、チョ・サンヒョン(国唱人間文化財)による「完唱春香歌」。
 つまり、浄瑠璃や浪曲のような「語り物」の展開を軸に、物語が流れる。登場人物は、チョ・サンヒョンのダイナミックなボーカルに押し出されるように、銀幕という舞台で「踊る」という設定である……その意味では、映画『春香伝』は、文楽などの人形浄瑠璃と構造が似ているとも言えるだろう。
 18世紀の初めに作られたという身分の異なる男女の「永遠の契り」の物語である。時に悲嘆にくれ、時に泣き崩れるようなボーカルが全体を被う。このような物語の表情から、「春香伝」とはすなわち、暗く、封建社会の中で喘(あえ)ぐばかりの恋愛悲話のように思われてきた側面があることは否定はできない。
 しかし、イム・グォンテク監督はこの作品で、朝鮮民族に長く愛されるこの物語が訴えようとしたテーマとは、単なる悲恋だけには終わらないのだと、積極的に語ろうとしているようだ。
 それは、どのような責め苦を与えられようとも、一つの愛に生きることを誓った春香の生き方そのものが、同じような境遇に生まれ圧制に沈まんとしている民衆の声を代弁し、さらに歌や物語によって語り継がれ、支配者が怒れば怒るほどに、その前で苦悩する一人の美少女、春香は、いよいよ大きな存在となる、という強いメッセージである。
 映画『春香伝』は、美しい「烈女」の姿に、民衆の心を投影させた作品であるとも言えるのかも知れない。
■ブランコに乗った美しい少女
 映画は、鼓手を従えたパンソリの演唱者がステージで独唱するシーンから始まる。
 現代のパンソリは、かつて庭にムシロを敷いて演じられた路上の芸ではなくなっている。
 映画では、そんな過去と現在の違いを明らかにするように、わざわざ背広姿のオジサンからカジュアルな服装の若者までが舞台を見つめているという場面も映し出す(韓国で上映されたオリジナル・バージョンでは、現代の学生たちにパンソリのレポートを書かせるという、もう一つの設定が加えられていたそうである)。
 太鼓の響きに乗せて、パンソリの演唱者は、まだ少年の面影を残す李夢龍(リ・モンニョン=チョ・スンウ役)という16歳の若者を紹介する。時は李朝の時代。夢龍は全羅道・南原府を治める長官の子である。
 夢龍は、科挙(かきょ)の試験をパスするための猛勉強にも飽きがきたある日、配下の者と連れ立って景勝地、廣寒楼(クァンハルル)へと出かける。
 この日はちょうど端午の日、うるわしい春の香りの中で、ふと、夢龍がみとめたのがブランコに乗った美しい少女だった。 
 夢龍はお供の房子(パンジャ)にその女、春香(イ・ヒョジョンの役)を自分の下へ呼び寄せるよう命ずる。房子は若い殿に、あの子は妓生(キーセン/芸妓)が生んだ娘ですが……と伝える。夢龍は、身分も低い娘であるなら好都合と思うが、しかし少女は、房子に一句を託し、あっさりと立ち去ってしまうのだった。
 その句の意味するところは、私に会いたいのなら、ダイレクトに。
 この知的なメッセージに、夢龍はますます少女に熱を上げてしまうのだった。
■幸せ絶頂の16歳が見た奈落
 ある夜、夢龍は春香の自宅を訪ねる。
 お前が欲しい、と。
 世は封建制の時代。春香も春香の母も、高貴な男のこの申し出を断ることができない。
 ならば、一生の誓いをと、春香は自分が今はいているチマ(チマチョゴリのスカートの部分)のど真ん中に一筆入れるよう夢龍に申し出る。
 「与月日同心」。月と太陽のように、永遠に変わらぬ心。
 二人は、「夫婦」となった。共に16歳という若い肉体が燃え上がる。毎夜繰り返される、情事。この時に登場する「お前は何を食べたいのだ」と、めんめんと問いかける歌のエロチックなこと。しかし春香と夢龍の関係とは、母が春香を生んだ時の事情と、基本的に変わらぬものだったのである。
 儚(はかな)さは、月日の移り変わりを二人に気づかせることなく、ある日、突然に訪れる。蜜月の二人を切り裂くように、夢龍の父の転勤が決定し、家族は漢陽(ソウル)へと戻らなくてはならなくなった。当然、夢龍も同行する。
 ならば春香は? 
 これがどうしようもない。身分が違うのだから。本当の夫婦ではないのだから。
 かくして春香は、夢龍の再会の言葉だけを信じて生きる女となった。
 
 さて、全羅道・南原府に絶世の美女ありというウワサは、本人の知らぬところで、広く知られることとなっていた。キーセンの娘ならキーセンであるからと、春香を自分の女とするために、わざわざ田舎の南原府を選び着任した長官が、さっそく春香を呼びつける。
 春香は、しかし私は人の妻であると応えた。
 自分を堂々と非難する春香に対して、長官は怒りにふるえる。
 『春香伝』最大の見せ場は、ここである。
■二夫にまみれること、二君に仕えること
 春香・拷問の場。
 夫婦の契りを破り、あなた様に仕えろとは、どのようなお心にござりましょうや。
 長官様、二夫にまみれること、すなわち、二君に仕えることと、同じでは……。
 長官の怒りは絶頂に達し、春香は椅子に縛りつけられ、棒で滅多打ちにされる。
 1度目の痛打で春香は、こう歌いだす。

 「一」の字で申し上げます、若様一筋と誓った心、
 一人の夫に仕えんとする私を、
 一本の棒で打つとは何たることぞ、
 早く殺してください
(字幕スーパーから/訳・根木理恵)

 2度目の痛打。3度目の痛打。苦悩の声は、二つ、三つと数え歌となり、役人たちの庭を出て風に乗り、春香と同じ暮らしをする普通の人々の胸に届く。
 着飾ってはいても奴隷と同じようなキーセンが歌い出す。農民が口ずさむ。
 とてもいいシーンである。ここに、数え切れることなく語り継がれた美少女「春香」とは、何者であったか、朝鮮半島の歴史において、どのような役割を「彼女」が果たしたのか、イム・グォンテク監督は簡潔にわかりやすく、的確に、現代の我々に伝えようとしているのである。
 そして、優れた歌や、特別な語り物が持つエネルギーの深さとは何かも。
 監督は、パンソリの声の調子に映像のリズムをシンクロさせるなど、実に細やかな配慮を試み、その秘密をも映像で探ろうとしているのが素晴らしい。
 『春香伝』は「歌の映画」ではない。歌(物語)の心を探す映画なのである。
■日本の大衆芸能とも関わり深いパンソリ
 パンソリは、朝鮮半島の南西部、全羅道(チョルラド)を中心に継承されてきた伝統的な語り物である。
 コクのある声で、長い物語を「歌うように語る」。その感性は、浪曲や浄瑠璃ととてもよく似ており、浪曲がチョンガレや阿呆陀羅経ほかかつての流浪の芸に根を持つように、パンソリも下層社会から発生した芸能である。
 パンソリの歌い方は、相当な熟練と芸の追求が必要とされる。このあたりのことを美しくも哀しいストーリーで描いたのが、冒頭に紹介した『風の丘を越えて』だった。
 パンソリの代表的演目である「春香伝」は、18世紀の始めあたりに、パンソリで語られるようになった。原作者はわからず、あまりにも人気があったがゆえに、「約120冊もの異本が書かれているが、うち約80冊は作者も年代も未詳」(『春香伝』のパンフレットから)だという。
 映画『春香伝』の物語は、その後、科挙をトップで受かった夢龍が密使として南原府に忍び込み、悪役の長官を懲らしめ、獄中の春香をも助け出す、という展開へと進む。
 時代考証に凝ったセットや服装も見ものの一つだが、例えば、長官の宴で奏でられる音楽が、明らかにアジアの東西を結ぶサウンドを持っていること。またそれは、沖縄の路次楽(るじがく)というかつての宮廷パレイド音楽とも、相当に近いことなど、ハッとする「指摘」がこの映画にはたくさんある。
 あるいは、春香と、夢龍や長官らの関係が、元歌としての「安里屋ユンタ」ほか、沖縄の名歌の成立事情と同じであることも。
 このように『春香伝』は、アジアの芸能・音楽文化の関連を知るには、相当に刺激的な映画なのである。
(おわり)

( 2001/01/29 )

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