菊地成孔(きくち・なるよし)
『野生の思考』
 音楽家/文筆家/音楽講師。1963年6月14日 千葉県銚子市の歓楽街、観音町にある飲食店の次男として生まれる。大変な難産の末に無言/無呼吸で取り上げられ、死産が危ぶまれたが、数分後に爆発的な産声を上げた。そのまま1歳よりワーカホリックを発症。6〜7〜8〜90年代を通して、あらゆる歓楽街を舞台に膨大な遊びと仕事に耽溺する。

 音楽家としてのデビューは85年(25歳)、横須賀米軍ベースで、フィフス・ディメンションのバックバンド、3番サックス奏者として。20世紀中の主なメンバー歴は山下洋輔グループ、ティポグラフィカ(今堀恒夫主宰)、グランドゼロ(大友良英主宰)。

 98年(35歳)で壊死性リンパ結節炎により東京女子医大・耳鼻咽喉科に入院、生死を彷徨うが完治。この入院(約二ヶ月)が人生最初の休暇となるも、退院後ワーカホリックが激化、DCPRG、第二期スパンクハッピーを主宰者として結成。各々ファースト・アルバム「アイアンマウンテン報告」(P-VINE RECORD)「コンピューター・ハウス・オヴ・モード」(キングレコード)を発表後、活動継続中。

 02年(39歳)不安神経症を発症。精神分析治療と内気効のコントロールをベースにした整体により緩解、治療開始時の約二ヶ月が人生二度目の休暇となるも、再びワーカホリックが激化。04年より新宿歌舞伎町、職安通り沿いのマンション最上階に仕事場を構え、アコースティック・ジャズ界に回帰、初のソロ・アルバム「デギュスタシオン・ア・ジャズ」とセカンド・ソロアルバム「南米のエリザベス・テーラー」を発表。各々のステージアクトの為に「クインテット・ライブ・ダブ」と「ペペ・トルメント・アスカラール」を結成。05年には「大停電の夜に」(アスミック・エース)の音楽監督として映画音楽界にデビュー、その後1年間で4作品を手掛ける。初プロデュース作は南博「タッチェズ・アンド・ヴェルヴェッツ」(04年/EWE)。

 著作デビューは03年「スペインの宇宙食」(小学館)から。以後、精神分析学から服飾文化史、音楽理論史など、膨大な知識と妄想を駆使した饒舌な文体で、異形の批評家/エッセイストとして著書多数。対象は音楽、映画、料理、服飾?闘技に及ぶ。

 音楽講師としては私塾である「ペンギン音楽大学(*昨年8月を持って生徒募集終了)」をはじめ、02年よりアテネ・フランセ運営の「映画美学校/音楽美学講座」楽理・編曲科主任講師を継続中、04〜5年にかけては東京大学教養学部非常勤講師(「ジャズ〜20世紀アメリカ史」「マイルス・デイヴィス研究」)として講鞭を執り、総ての講義録を出版。06年からは国立音楽大学の非常勤講師(ジャズ理論史)に就任。 新たな学術領域に入る。
(菊地成孔オフィシャル・ウェブサイトから、抜粋)

菊地成孔official website PELISSE:http://www.kikuchinaruyoshi.com/


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( 2006/10/26 )

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